LOGIN時計の針が十九時半を回った。――そろそろ晩御飯の準備せな。 凜は何度目かも分からないまま、スマートフォンの画面を点けた。 理玖からはまだ連絡はなかった。 そのまま画面を消して伏せればいい。 頭では分かっているはずなのに、胸騒ぎが治まらない。 SNSを開く。 画面には、あのアカウントが表示されたままだった。 投稿一覧に目を落とした瞬間、嫌な汗が吹き出した。「増えてる……」『ヒント3八年前、娘は堂島電気株式会社の御曹司との結婚式当日に姿を消した』 投稿されたのは、ついさっきだった。 それでも、大量のコメントが付き、今なお増え続けている。『あ、これ当時ニュースになってなかった?』『堂島電気の御曹司の結婚式で花嫁消えた事件あったな』『花嫁って白鳥家の娘だったの?』『記者会見で、堂島さん「自分が至らなかった」って説明してたよな』『当日バックレって、頭おかしいだろ』『金目当てだったのがバレかけて逃げたんだろ』『で、その人が今の黒瀬CEOの妻? 黒瀬CEO、騙されてるんじゃない?』『KWSも財産食い潰されるぞw』『この前白川のトラブルあったし、嫁、疫病神やんけ』『KWSの株持ってるけど、手放します』 血の気が引いていく。 視界が揺れて、足が縺れた。 咄嗟に、ローテーブルに手をついた。――知られた。きっと、全部知ってる……。――もし、あのことまで知られてたら。 考えた瞬間、下腹部が疼いた。「……いや」 これ以上、理玖を巻き込めない。――うちが理玖の元からいなくなれば……。――もう手遅れかもしれへん。 それでも――。 もう理玖の顔を見られる気がしなかった。 立ち上がり、
薬局で薬を受け取り、買い物を終えてマンションへ戻る。 玄関の扉を閉めると、凜は大きく息を吐き出した。 バイトを早く切り上げさせてもらったはずなのに、いつもより身体が重い。『ステロイドの飲み薬を出します。今日から服用してください』 医師の言葉が蘇る。 病院へ行ったと理玖に知られれば、きっと理由を聞かれる。 八年前から左耳が聞こえにくかったことも。 何がきっかけだったのかも。――めんどくさい。 ただ、そう思った。 薬の袋をしばらく見つめた後、凜はキッチンの戸棚を開く。――ここなら、理玖もあんまり見いひんよね。――薬を飲んで良くなれば、それでええし。 そう自分に言い聞かせ、薬を奥に押し込んで戸棚を閉じる。 食材を冷蔵庫に仕舞い、ソファに深く腰掛ける。 一人だけの部屋は静かだった。 時計の音すら聞こえない。 傾きかけた太陽の光が温かい。 ソファに寝転がると、宙に浮いているような感覚すら湧いてくる。――ちょっとだけやから。 凜はゆっくりと瞼を閉じた。 遠くから声が聞こえる。 耳を澄ますと、グラウンドで走っている運動部の掛け声だった。 校舎から響く、吹奏楽部のメロディーも聞こえてくる。――ああ、全部夢やったんや。 だって、頬を撫でる風が、こんなにも気持ちいい。 もう少ししたら、制服姿の理玖が屋上に上がってくる。 今日の授業の話をして、下らないことで笑い合う。 そしたら、きっと菜央が「また二人だけでどっか行くんやから」といって頬を膨らませる。 暫くしたら、玲奈先輩が扉を開ける。――あれ、玲奈先輩なんて、おったっけ……? 左耳の奥で、きん、と音がした。 玲奈先輩に将来のことを相談して、時々理玖との関係を茶化される。 誰かが「そろそろ帰ろう」と言い出す。四人で階段を
診察室に呼ばれたのは、病院に着いてから一時間ほど経った頃だった。「白鳥さん、どうぞ」 名前を呼ばれ、凜は診察室へ入った。「今日は、左耳が聞こえにくいということですね」「はい」「いつ頃からですか?」「今日の朝から、特に……」 医師が問診票へ視線を落とす。「特に、ということは、以前から多少聞こえにくかったんですか?」「……はい」「どのくらい前から?」 すぐには答えられなかった。「……八年ぐらい前からです」 医師が顔を上げた。「八年前? どの程度、聞こえにくかったんですか?」「普段はそんなに困ってなくて、でもたまに耳鳴りがあったり」「目眩や、平衡感覚がうまく保てていないと感じたことは?」 朝のことを思い出す。「今日、起きた時に少しだけ。床が傾いたみたいに感じて……でも、すぐに治りました」「分かりました。一度、聴力を詳しく調べましょう」 診察室を出て、案内された検査室へ向かう。 小さな防音室に入り、ヘッドホンを着けるよう言われた。「音が聞こえたら、ボタンを押してください」「はい」 右耳から、小さな電子音が聞こえる。 凜はすぐにボタンを押した。 次の音。 その次の音。 右耳は問題なく聞こえる。 やがて左耳に切り替わった。 最初の音は聞こえた。 けれど、その後しばらく無音が続く。 耳を澄ましてみても、何も聞こえない。――まだなんかな。 少しして、かすかに音が聞こえたような気がして、すかさずボタンを押す。 けれど、本当に鳴ったのか、自信はなかった。 また音がする。 けれど、右耳で聞いた時よりもずっと遠い。 何度も何度も、音を探すように耳を澄ま
遠くで聞き慣れた音が鳴っている。 けれど、まだ心地良い微睡みを手放したくなかった。 身体を捻ってみる。 それでも音は鳴り止まない。 しばらくして、同じメロディーが繰り返されていることに気付いた。――目覚まし……? そこでようやく、凜は薄く目を開けた。 見慣れた天井。 スマートフォンに手を伸ばすと、四度目のスヌーズが起動しているところだった。 凜は慌てて、隣に寝ているはずの理玖へ手を伸ばす。 その手が空を切った。――もう出勤してしまったんやろうか。 ベッドから立ち上がった瞬間、身体がぐらりと傾いた。「……あれ?」 慌ててベッドの縁に手をつく。 一瞬、床まで傾いたように見えた。 けれど、次の瞬間には元に戻っていた。 額に手を当ててみても熱はない。――寝すぎたんかな。 顔を洗うと、視界が鮮明さを取り戻した。 リビングの方から、いい匂いが漂ってくる。 キッチンを覗くと、理玖がそこにいた。「よく寝てたな」「あ、おはよう。いたなら起こしてくれれば良かったのに……」「疲れてるんだと思って」 凜は笑顔を貼り付けた。「疲れてないよ」「そうか。もうすぐご飯できるから、座っててくれ」「ありがとう」 ソファに座って窓の外をぼんやりと眺める。 雲一つない青空。 きっと風が気持ちいい。 唐突にローテーブルに食器が置かれた。 凜の肩がぴくりと跳ねる。「ご飯、このぐらいで良かったか?」「うん、ありがとう」「……今日、天気いいな」 理玖も窓の外に視線を向けた。「そうだね」「いただきます」 揃って手を合わせる。「凜、昨夜は話聞かなくて
「ねえ、理玖」 凜は毛布を引き上げながら声をかけた。 すぐそこに理玖がいるのに、寝室はいつもより寒く感じた。「どうした?」「あの人は、何が目的なんやろ」「あの人って、SNSで投稿してる奴か?」「うん」 理玖は少し考えてから答えた。「分からん。面白半分かもしれないし、俺かお前に何か恨みがあるのかもしれない」「昼に、もしかしたら大雅かもしれへんって言ったけど」「……そうだな」「けど、もし大雅じゃなかったとしても……大雅のことまで知られたら、理玖にも迷惑かかるよね」 数秒、沈黙が漂った。「ないとは、言い切れない」「そう、だよね」 否定してほしかったわけではない。 それでも、胸の奥が少し重くなる。「凜。明日、バイトは?」「あるよ」「休めないか?」「え?」 凜は理玖の方へ顔を向けた。「まだ身元が割れたわけじゃない。でも、あんな投稿が出てる以上、一人で出歩かない方がいい」「でも……仕事まで休む必要ないやろ?」「何かあってからじゃ遅い。いつ、どんな情報が出るかも分からない」「せやけど、いつまで休めばええの?」 理玖が口を閉ざした。「なあ、どうしても働きたいのか?」「え?」「金なら俺が稼いでくる。別に専業主婦になったって、何も困らないだろう」「そんなん……」 あいつらと一緒だ。 一瞬、義母の麗華と大雅の顔が頭を過った。 家の財産を食い潰した挙句、自分が父の治療のために働いて稼いだお金まで寄越せと言ってきた。 あいつらみたいになんて、なりたくない。「うちは、いやや。お父さんの治療費も出してもらってるのに……」 理玖がゆっくりと息を吐き出す
理玖から返信が来たのは、日が傾き始めた頃だった。 スマートフォンの通知音に、縋り付くようにして画面を開く。『遅くなってすまん。今こっちでも確認した』『投稿に付いてるコメントも見たが、特定に繋がるような情報は出てない』 理玖の言葉に、ほっと息を吐く。『でも、知ってるって』 すぐに返信が来た。『今のところ、本人から追加の情報を出してる様子もない。ただのはったりだろう』『けど、もしかしたら大雅かも』 既読は付いたが、なかなか返事は返ってこなかった。『ないとは言えない。だが、これだけじゃ発信者情報の開示請求は通らない』『じゃあ……』『アカウントはこっちでも監視しておくが、何か動きがないと特定のしようもない』「そう、なんや……」 数分が経って、理玖からもう一通メッセージが届いた。『できるだけ早く帰る』『無理しなくていい』と返そうとして、代わりに送ったのは『待ってる』の四文字だった。 冷蔵庫を開いて、食材の残りが少ないことに気付く。 このまま部屋にいても、さっきの投稿のことばかり考えてしまいそうだった。 凜は気分転換も兼ねて、スーパーへ向かうことにした。 何か手間のかかるものを。 メニューを考えながら精肉コーナーに差し掛かる。――せや、ハンバーグとか好きやったはず。 そう思い立ち、牛挽肉のパックを手に取った。 調味料と野菜も買い揃えて帰路に着く。 マンションに帰り、早速調理に取り掛かった。 玉ねぎを切り刻み、飴色に炒める。 牛挽肉を冷やしながら練り、粗熱を取った玉ねぎを混ぜ入れる。牛乳とパン粉、調味料を加えると、香辛料の香りがふわりと立ち上った。 出来上がったタネを冷蔵庫に仕舞う。 後は玖から連絡が来てから、形を整えて焼くだけだ。 二人分とは言え、思っていたよりも早く